voice 5

 春一番が全国各地で発生しているようですねー♪おかげさまで駅前の駐輪場が大変なことになっています。。
 みなさま、飛ばされないようにご注意ください。


 以下、前回の記事に鍵付きでコメントを下さった方へのお返事になります。

 わーい、ありがとうございます!タイトルをつけるのは本当に苦手で、毎回ウンウン唸りながら考えているところですf^_^;)なのでそう言っていただけると本当に嬉しいです。多村君のお話は書いていてとても楽しい(兄さんが素直になりますしね。笑)ので、また機会があれば登場していただこうかと画策しています。その時はまたお付き合いくださいませ(*^_^*)



 さて、今回のお話は前々回のお話の続きになります。前回“兄さん、チョコを買いに行く”なお話をあげてしまったものですから、内容を覚えてらっしゃらない方のために今までのお話を簡単に説明しますね。「森永君が声を失う話」です(ざっくり)。
 今回を含めてあと2話の予定ですので、もう少しお付き合いいただけると幸いです。


 ではでは、よろしくお願いいたします。







『森永君、相当無理をしていると思うわ』

 電話越しに聞こえる伯母の声が酷く重い。普段なら柔らかく耳に残る声なのに、そのギャップに事の深刻さを思い知る。
『しかも本人はそれに気付いてないんじゃないかしら。お医者さんはゆっくりするようにとしか言わないみたいだけど、本当にそれで大丈夫だと思う?』
 どこか訝しげな色を持つ伯母の声音は間違いなく身内を心配するそれだ。どうやら治療方針に懐疑的なようで、次に病院に行くときは同行させてもらおうかしらと呟いている。
「大丈夫ですよ。何よりもリラックスすることが一番の治療法みたいですし。今日蜜煮を作ってるときは楽しそうだったんでしょう?そういう、楽しい時間をもっと増やしていけば……」
 心底森永を案じている伯母に、“身内以外は診察室に入れない”と改めて伝えるつもりはない。少し考えればわかることだ、伯母も自分で気付くだろう。
 そのまま、今日の森永の様子を教えてもらった。天辺部分の金柑を採るためには森永でさえ背伸びをしなくてはならなかったこと、そのでっかい身長を折り曲げてチマチマと種を取る作業をしている姿が妙に可笑しかったこと、出来たての蜜煮を食べて火傷しかけたことなど、聞くだけでその光景が目の前に浮かんでくる。煮込み料理の出来たてが熱いだなんて幼稚園児でも気付きそうなものなのに、なんだアイツは園児以下か。
『それでね宗君、これは大事なことなんだけど、』
 そう前置きした後で、伯母は森永が漏らした(書いた)ある言葉を教えてくれた。
『“迷惑をかけている”だなんて自分を責めるようなこと……真面目な森永君らしいけど、今の彼にはどう考えたってマイナスだわ』
 それを聞いて、思わず自分の眉間にシワが寄ったのがわかる。そうやって自分を追い込むのはアイツの悪い癖だ。そこから導き出される答えは退学だの失踪だの、はた迷惑なモノばかりだったではないか。今すぐその成長のない脳みそに拳を落としてやるべきか。
 ところが続けて伯母に「ちゃんと森永君に甘えられているか」「ワガママを言える状況を作ってあげろ」「暴力なんてもってのほか」と小言を言われたので、振り上げた腕を下ろさざるをえなかった。確かに完全じゃない森永に拳骨を落とすのは惨いかもしれん。


 伯母との通話を終え、携帯をソファーに放り投げる。最近買ったばかりのソファーは当然まだスプリングがへたっていない。おかげで座面で跳ねた携帯が床に落ちかけた。
 壁時計を見ればもう19時を過ぎている。講義の後に学生に捕まり、解放されたと思ったらタイミングよく鳴った携帯で思いの外時間を取られてしまった。一度実験室を覗いて学生たちの進捗を確かめたら、今日はそのまま帰宅することにしよう。
 研究室に施錠をしていると、偶然にも福島教授が通りかかった。
「おや、今日はもう帰り?」
「あ、まぁ実験室に寄ってからですが」
「そうかそうか、さすが巽君だね……ところで、最近帰りが早いようだけどもしかして体調が悪い?」
 内心、軽く眉を顰めた。確かに森永が声を失ってからというもの、帰宅する時間がかなり早くなっている。教員は裁量労働制となっているので文句を言われることはないと思うが、もしかして連日の早帰りが研究に対して不真面目だと捉えられたか。
「いえ、確かに最近帰りが早いですが、自身の体調は別に」
 少し言葉に勢いがついた理由を察したのか、慌てて教授が片手を振ってくる。
「あぁ、それならいいんだ。誤解のないように言っておくけど、別に早く帰ることを咎めているわけじゃないからね。寧ろ巽君は昔っから根を詰めすぎるタイプだから、帰宅時間が早ければ早いほど僕は安心するんだよ」
 そう言って、福々しい顔をにっこりとさせる。学生時代から見慣れている“仏の福島”スマイルは今もなお健在で、多くの学生たちから慕われている。まぁそれに対応するかのように自分が“鬼の巽”と呼ばれていることも知っているけど。
「実はね、最近巽君が保健管理室に出入りしていたのを見たというゼミ生がいてね。いよいよ研究のしすぎで身体を壊したんじゃないかと心配してたんだよ」
 まぁまずは学生にそんなプライバシーを広めるもんじゃないと一言注意したけどね、と困ったように笑い、
「それに巽君、体調は悪くないというけど最近きちんと眠れている?顔色が悪いのは本当だよ」
「……ええ、大丈夫です」
 その後少し実験の話をして、研究室に戻る教授と別れた。
 研究室の並ぶ廊下から離れ角を曲がったところで、漸く大きな息を吐く。


 ――まさか学生に見られていたなんて。ったくプライバシーも何もあったもんじゃねぇな。


 ゼミ生に見られたのは、森永のことで保健管理室の医師に話を聞きに行ったときのことだろう。
 森永の声が出なくなった次の日、大学に出勤するなり真っ先に保健管理室へのアポ取りをした。事前予約が必要だったが、幸いその日の午後には初老の医師と面会することができた。本務に関わることではないのだが、と前置きをして始めた相談だったけど、
「いえ、それは十分に本務に関係ありますよ」
 とのっけから窘められた。
「あなたと一緒に生活をしている人なのでしょう?それならばあなた自身の問題でもありますから」
 そしてストレス性失声症について医学的な説明を受け、サポートする側の姿勢を懇懇とと説かれた。中でも一番印象的だったのが
「その方が声を失ってしまったのは、決してあなたのせいではありませんから」
 自分はそのときギクリとした表情だったのだと思う。医師は穏やかな表情のまま
「大変よくあるパターンなのですが、失声症を患った患者さんの周囲の人たちは往往にして自らを責める傾向にあります。自分がもっと気遣ってやればよかったのではないか、近くにいたのに気付いてやれなかったと皆さん思われるんですよね。中にはそうした思いが過ぎてパニックになってしまう人もいる」
 あなたも最近眠れてないでしょう、目の下に隈ができてますよ、と指摘されて気恥ずかしくなった。確かにその通りだが、そんなにわかりやすいのだろうか。森永にバレていないといいけれど。

「大丈夫、きっとその患者さんは良くなります。一番近くにいるあなたが、そう信じていていてください」





 もちろん、森永の回復を本人以外で一番願っているのは自分だと思う。
 そして医師のいうように例外なく自分を責めてもいた。どうしたってそうなるだろう。
 でも伯母の話を聞く限り、森永も自身を責めているようで。

 八方塞がりとはこのことだ。
 どうしようもなく自分の頭がガチガチになっていることを自覚し、こんなとき最も頼りたくない人間に連絡を取ってみることにした。
 こういう状況ゆえ、自分と違う視点で物事を捉えることができる人間は貴重なのだ。
 普段全くそりの合わないヤツの意見だからこそ気がつく部分もあるということは、経験則上わかっているので。




『――もしもーし。どうしたの君から電話なんて。もしかして森永君と喧嘩でもした?』
「してねーよ!なんでお前に電話するイコール森永と喧嘩になるんだよ!」
『だってこんなときじゃなきゃ俺を頼ってくれないじゃなーい。いいんだよ?いつでも磯貝兄さんを頼ってくれて』
「うっぜぇ……」
『で?森永君は今何してんの?』
「風呂」
『因みに今日の晩ご飯は?』
「スペアリブの金柑の蜜煮」
『うっわまた美味しそうなモノを……宗一君、本当にいいお嫁さんもらったねぇ』
「切るぞ」
『いやいや君からかけてたんでしょ?切っていいの?』
「ちっ……」
『で、どうしたの、何があったの』
「何があったってわけじゃねーけど……あのさ、俺は学校という組織から出たことがないからよくわからないんだけど……その……会社勤めってどんな感じだ?やっぱストレスって溜まるよな」
『そりゃどんな職業でもストレスと無関係ってところはないでしょ。君だってそうでしょ?』
「まぁな」
『どの職場でも面倒臭い上司はいるし手のかかる後輩はいる。気の合わない同期は当然だし、社内も社外も敵がわんさか。表面上はにこやかに握手してても心の中では臨戦態勢ってね。本当、我ながらよくやってると思うよ』
「お、おう……大変だな」
『何引いてるの。大概そんなものさ。森永君だってきっとそうだと思うよ……あ、そういえば彼の会社、最近新聞にでかでかと載ってたね。俺は分野が違うからよくわからないけど、森永君の会社だってことで記憶に残っててさ。もしかして森永君、あのプロジェクトに関わってたの?それで疲れちゃったとか』
「あー……まぁ」
『なんだ、そんなの宗一君が「森永、お疲れ」とか言って抱きしめちゃえば一件落着じゃん。一気に元気になるだろうよ』
「お前、やっぱ頭沸いてんな」
『そうかなぁ。一番大切な人からのハグは何よりも嬉しいでしょうよ』
「意味わかんねぇ」
『そうかぁ、宗一君にはまだ早かったかぁ……ってちょっと待ってまだ切らないでよ。じゃあさ、俺のお勧めのストレス解消法を伝授してあげるよ』
「さっさと言えよコノ野郎」
『宗一君、君ね、教えてもらう立場のくせに態度悪いよ?俺じゃなかったら怒られてるからね?』
「お前以外にこんな態度とるわけないだろう」
『え、何、俺だけなの?何その特別感。森永君に妬かれちゃうなぁ。じゃあそれに免じて教えてあげるよ――俺はね、疲れたときは海に行くことが多い』
「海?」
『うん。視界いっぱいに同じ景色を入れてると、自分の悩み事や疲れなんてちっちゃいものなんだなぁって思うんだよね』
「ふーん……そんなもんなのか」
『俺はね。まぁちょこちょこと周りに話を聞いてもらうことでストレスを解消する人間もいるけど、森永君はそういうタイプじゃないだろ。ため込んでため込んで、コップの水を溢れさせるタイプだよ』
「……」
『そういうタイプの人間にも海はお勧めだと思うな。しばらくボーッとしてると無になれる。コップの水も空になるよ』
 今の時期寒いんじゃないかと問うと、まぁそこは我慢して行ってごらんと磯貝は笑った。





 アドバイスに従うのは癪だったけど、結果として森永を海に連れ出したのは正解だったと思う。まさかはしゃぎ疲れて寝落ちするとは思わなかったが、そんな森永を伯母は「この前と全然違う」と嬉しそうに眺めていた。
 まぁ折角気分が上向いているのだからと握られた手を振りほどかなかったけど、次はねぇぞ。





*****

 二日前に突然休講にした講義もそうだが、学部の講義は午前中に入ることが多い。しかも概論は必修になるので、受講生の数に比して割り当てられる教室も大教室になりがちだ。
 マイクがあるので講義自体やりにくいと思ったことはないものの、意外と学生の顔がわかるということは教える立場になってから初めて気が付いた。自分が学生のときは寝ている学生を直に指名する教授たちを「こんだけいんのに千里眼かよ」と呆れていたこともあったけど、なんてことはない、ここに立てば全体が見渡せるのだから。

 そんな感じなので、欠伸が目立つ学生の中に見慣れた頭を見つけるのは簡単だった。


 何してんだあの馬鹿。

 
 変装のつもりなのか以前見たものとは違う黒縁眼鏡をかけてはいるけど、それ以外は今朝玄関で見送ってきたまんまの森永だ。仕事のときは舐められないようにと前髪を上げることが多いのに、あんなふうに額を隠して地味な眼鏡をかけてしまえば充分学生で通ってしまう。但し、周りの女子がチラチラ視線を送っている時点で目立たない努力は諦めた方がいい。右上の一角、普段以上に女子が固まりすぎだろ。もしかして現役の頃よりモテてんじゃねーの。つーか何しに来たんだあの馬鹿は。来るなんて一言も聞いてねぇぞ。
 不自然に思われない程度に溜息をつき、手元のマイクのスイッチをいれる。電源の入る僅かな電子音に、少しざわついていた教室(特に右上の一角)が一気に静まり返った。
 ぐるりと教室を見渡し、学生たちがこちらに視線を向けているのを確認する。一名ほど妙な視線を向けてくる奴がいるけど、そこは無視を決め込むことにした。
 ――よし。始めるか。

「今日はテキスト第2章3項から。テキスト持ってないヤツはテキトーに聞いとけ」
 
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 90分の講義終了後、途中使ったスライドの片付けや学生の質問に答えているうちに、森永の姿はなくなっていた。教室を出るなり携帯を鳴らすも応答はない。今すぐヤツが向かいそうな場所を探したくなるが、今日この後は学生の指導にあたらなくてはいけない。折り返しの連絡があればすぐにわかるようにとジーンズのポケットに携帯を入れるも、一向に携帯は震えない。何をフラフラしているんだあの馬鹿は。通い慣れた校内で何かあるとは思わないが、今のアイツの状態は普通じゃないから。落ち着いて考えてみれば声を失った状態でも外出はしているんだけど。
 イライラついでに指導の学生には結構厳しくあたってしまった。申し訳ない、お前らの馬鹿な先輩が原因だ。
 やっと昼過ぎに解放され、心当たりの場所を片っ端から探すことにした。一番に考えられる福島教授の研究室は本日出張のため不在となっている。実験棟一階のロビーや外の自販機コーナー、講義棟も含めた学部周辺をぐるりと回り、今の状態では行きそうもない学食やカフェテリアも覗いてみた。が、あの無駄にでかい姿は見当たらなかった。
 ならばと普段人気のない、森永というよりも自分が気に入ってよく訪れる場所に足を向けた。こんな天気のいい日に訪れることの多いその場所は、猫の額ほどのスペースに誰かが持ち込んだ古ぼけたベンチが一脚置いてあるだけの場所だ。周囲を常緑樹に囲まれているので、どんなに天気がいい日でも結構薄暗い。しかし頭上を覆い尽くす枝葉から零れ落ちる光がとても心地よく、一人でぼんやりしたいときには大抵ここを訪れていた。

 ――果たしてそこに森永はいた。膝には農学部周辺に居ついている白猫が乗っている。

「返信をせんか馬鹿モノが」
 葉を踏む音で自分が近付いてくるのがわかっていたのだろう、のっけからそう言っても森永は苦笑いを零すだけだった。携帯を手にしているところからすると、もしかして今着信に気付いたのか。
「全く、フツーに講義に混ざりやがって」
 腰をおろしつつそう言ってやると、森永は驚いたように眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。
「気付かないワケないだろうが」
 憮然とした口調に対し、同居人は悪戯が見つかった子供の様な顔をしてこたえた。そして反対側に置いてあったボディバッグからいつもの落書き帳を取り出し
『もしかしなくても、俺、目立ってました?』
 そう言って(書いて)少し不安そうな表情を浮かべる。おそらく講義の邪魔をしてしまったのではないかと心配しているのだろう。
「まぁお前の周りに女子が集中してたからな。特に講義の邪魔になったというわけではねーよ」
 続けて何で学校に来たのかを問うと、暫くペン先を泳がせてから
『原点を、確認したくて』
「原点?」
『何で自分が研究じゃなくて就職を決めたのか』
「……ふーん」
『あの頃はすごくすごく悩んだけど、やっぱり俺はこの道を選んで正解だったと今思います』
 そう書くと、森永はにっこりと微笑んだ。
 確かあの頃、森永は自分は研究職よりもその成果をどう使うかってことを考える方がが向いていると分析したんだったか。
 森永ほどの男であれば、そのまま大学に残ってもきちんと結果は出ていただろう。現実に選んだ就職の道において結果を出していることは、件のプロジェクトの成功が記憶に新しい。声を失った原因ではあるけれど、森永の表情を見る限りその部分に気持ちの折り合いをつけたようだ。今日大学に来たことで、何か思うところがあったのだろう。
 穏やかな笑みを浮かべる森永を見て、少し意地の悪いことが言いたくなってきた。
「そういえばあの時、なんか俺を経済的に支えるとか馬鹿なこと言ってたよなぁ」
 意地悪くそう言うと、途端に森永がアワアワしだした。
『あぁぁぁぁごめんなさい!子供でした!でも、あの頃の俺、先輩と離れたくなくて!関係をしっかりさせておきたいというか、』
 そこで一旦、森永のペンが止まる。軽い間の後、最早自分には見慣れた少し右上がりの読みやすい字を書き付ける。
『結局は、対等になりたかったんです』
「対等?」
『先輩はものすごく優秀で将来を期待されている研究者で。そんな先輩を助手として支える未来も描いたんですけど、俺は研究者に向いているとは思えなかったし。助手という立場じゃなくても先輩のとなりに立ち続けるにはどうしたらいいかって』
「……」
 ふと、あの時の大ゲンカを思い出す。結局はあのことがあったから今の自分たちがあるのだけれど、思い返せはお互い子供だったと恥ずかしくなってしまう。もうちょいうまいやり方があったのではと思わないでもない。が、現状に満足しているので良しとしよう。

 森永の望むように、今自分たちは対等だ。社会的地位は異なれど、どちらか一方的に寄りかかっている関係ではない。しかし、一方がダメになったら必至に引き上げるor背中を蹴飛ばして起ち上がらせるぐらいには、お互いなくてはならない存在だとは思う。そんなこと、対等と認めてなければできることじゃないだろう。

 でも絶対口になんて出してやるもんか。

「残念だが、俺とお前が対等になることはない。お前は一生、俺の後輩だからな」
 そういってニヤリと笑ってみせると、隣で森永がぶはっと吹き出した。それに驚いた白猫が膝から飛び降りる。せっかく気持ち良さそうに寝ていたのに申し訳ない。
 まだ笑みの形が残る顔に手を伸ばし、その薄い頬を指先で摘んで捻ってやった。
「お前、昼飯まだだろ。学食行くぞ」
 同居人は声なき悲鳴をあげているくせに、いまだ口元は弧を描いている。なんて情けない顔だ。
「A定奢ってやるから、飯食ったら研究室でデータ整理の手伝いな」
『え、でも俺部外者だからそれはまずいのでは。つーかほっぺたいたいんですけど』
「るせーな。お前は俺の身内みたいなもんじゃねーか。ごちゃごちゃ言うな」
 さっさと行くぞと立ち上がり、続けて立ち上がった森永の尻を軽く蹴り上げた。すると擽ったそうに笑うから。
「ほんっとお前ってMだよな」
 呆れを込めてそう言ったのに、何が嬉しいのか森永は満面のだらしない笑顔を浮かべている。


 久々に、本当に久しぶりに目にしたその笑顔に、不覚にも一瞬目を奪われてしまった。


 ――声が出ても出なくても、これが自分の気に入っている笑顔であることは変わりないようだ。




 もう一度尻を蹴り上げ、少し遅めの昼飯にすべくその場を後にした。
 隣の森永の幸せそうな横顔を盗み見しつつ、こんな顔を見られる対等な立場に感謝しながら。











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